握手しよう
前の前の前のアルバイト先には個性的な人たちが多く働いていた。
バツ5のおじさん、仕事をせずに変電室で一日中寝るおじさん、酒臭すぎておじさんに怒られるおじさん、停電中に「なんか恋バナとかないの?」と聞いてくるおじさん、物陰に隠れて出勤してきた人を驚かすおばさん、「なんでこんな職場にいるの?」ってくらい真面目な女の子などなど、変なおじさん6:変なおばさん3:真面目な人1、くらいの比率の愉快な職場だった。
その中でもタグチさんは特に強烈だった。
酒臭すぎておじさんに怒られるおじさんことワタナベさんに「タグっちゃんはヤバい」と言わしめるほどだった。
ワタナベさん曰く、タグチさんはめちゃくちゃ酒に強い、つまり内臓が強いので恐らくとんでもない量の酒を常飲しているから、内臓よりも脳がやられているというのだ。妙な説得力があった。
確かにタグチさんの挙動は誰が見てもおかしかった。
タグチさんが書く引き継ぎノートは誰にも読むことができなかったし、会話をしていても急に話題が変わったりして全く噛み合わないことがしばしばあった。「アマゾンでCDが買いたい」というのでやり方を教えていたら、急に「なんで送料がかかるんだよ!」と大声を上げられたこともあった。
タグチさんは40代後半だったが、いわゆる「キレる老人」のようだった。
ある日の朝、タグチさんと俺は職場のトイレで大げんかをした。
出勤してすぐにトイレに行くと、タグチさんが何かを飲んでいた。
ラベルが剥がされたペットボトルに入った透明の液体を見て、俺は「酒ですか?」と言った。
それが試合開始のゴングかのように、タグチさんの顔は真っ赤になり、キレた。
「酒じゃないよ!大体お前はなぁ!」と俺に対する恨みつらみが朝の冬のトイレに響き渡った。
俺も段々と腹が立ってきて、「誰のおかげでスマホでCDが買えるようになったか言ってみろよ」と、全く迫力のない脅し文句を言い返したりしているうちに、虚しさと悲しさが芽生え、脱力してしまった。
「最後にこいつ(タグチさん)をぶん殴ってこのバイトを辞めよう。」と思い、ゆっくりと近づくとタグチさんは「握手しよう!」と言った。
それが可笑しいのと虚しいのとで更に脱力してしまい、「しませんよ。」と言って持ち場に向かった。
多分あの透明の液体はタグチさんの大好きな日本酒だったと思うが、「酒ですか?」なんて吹っかけずに放っておけばよかったと後になって自分の幼さに後悔した。
この一件があった数ヶ月後に俺はこのアルバイトを辞めた。
しばらくはおじさんたちの噂を耳にすることもあったが、ここ数年、特にコロナ禍に入ってからは全く情報は入ってこなくなっていた。
そんな中、ヤフーニュースのとある記事にタグチさんの名前を見つけた。人を殺して逮捕されていた。
その記事を見つけた時、あまり驚かなかったのだが、その代わりに「あの時もし俺が握手していたらこの人はタグチさんに殺されなかったかもしれない」と妙なことを考えてしまった。
タグチさんはビートルズの大ファンだった。
テキスト・イラスト:阿部隆太
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